輪るピングドラム 第15話「世界を救う者」
輪るピングドラム 第15話「世界を救う者」
荻野目苹果が時籠ゆりの手によって、めくるめく禁断の世界へ旅立とうとしていた頃、高倉晶馬は友人の山下洋介と共に、商店街の福引で当たった旅行券で、温泉旅館へとやってきていた。そんな時、苹果から、留守電メッセージが入る。少し言い過ぎたと航海していた晶馬がそのメッセージを聞くと、そこからは、息の上がった苹果の声で「もうメチャクチャにされちゃう。晶馬くんのせいだからね!」という意味深な台詞が。
あわてて電話する晶馬だったが、苹果のピンチにも駆けつけられない。なぜならここは東京ではないから!しかし、隣室から聞こえてくる声に耳を澄ますと、それは電話口の声と全く同じものだった。
一方、病室でテレビを見ていた高倉陽鞠は、ブラウン管の向こうの伊空ヒバリと歌田光莉が、陽鞠の編んだマフラーをしていることに気付く。それを行ったであろう渡瀬眞悧のもとへ行くと、そこには金を私に来たいた高倉冠葉がいた。
AパートとBパートの構成がはまっている。Aパートでは、時籠ゆりの幼少時代、父との関係や、荻野目桃果との出会いがドラマティックに描かれる。そしてBパートでは、それとは対になるテーマが描かれるのだ。
一般的に、児童虐待というテーマは重い。軽々に扱うと、逆に叩かれることすらあるだろう。だが今回は、そんな重いテーマを扱わなければならない。時籠ゆりは小学生の頃、お前は醜いと父親に刷り込まれ、美しくなるためには、父に愛されるためにはこれに耐えなければならないと、体を傷つけられることを受け入れさせられていたのだ。
そして、そんな事実が発覚しないように、彼女に友達ができれば、真の愛は家族の間にしかない、友人はお前を裏切る、といって、仲良くなることを否定していた。
子どもの世界にとって、親の言葉とは絶対だ。それを利用して子どもを支配するのは、やり方として汚い。そんなゆりにかけられた呪縛を破ったのが、桃果だ。彼女はゆりをきれいだといい、醜いアヒルの子なんていうのはどこにもいないと、彼女にとっての救いの言葉を告げる。そして、自分のみを犠牲にしてまで、彼女の呪縛を破ることで、ゆりの絶対的な信頼を得ることに成功するのだ。
しかし、こういうネタを正面から扱うのはアニメ的に色々とつらい。そこで、ピンチに陥った苹果を、ご都合主義的に晶馬が助けに来るという構図を作ることで、ヒロインのピンチにはヒーローが助けに来るということを強調し、かつ、その晶馬をコミカルに描くことで、あくまでこれはフィクションだということを強調したかったのだと思う。
そして今度は逆に、家族のためには自分を犠牲にする例として、冠葉を描く。彼は、陽鞠を助けるという目的を達するために、自分の何かを犠牲にして、大金を持ってくる。その姿は正しいけれど、どこか異質でもある。まるで彼は家族という血の呪縛にとらわれている囚人であるかのようだ。
そんなことは何も知らず、マフラーが友人に届いたことに喜ぶ陽鞠。彼女は、多大な犠牲を払っている冠葉にではなく、マフラーを届けただけの渡瀬眞悧に篤い感謝の念を送る。彼女が本当に望むことを成し遂げたのは誰なのか。そこに冠葉のやりきれなさが浮かぶ。
ついに桃果の秘密が明らかになった。あの日記に込められた能力が何かということも。それでは一体、桃果は何の代償に自分の命を失ったのだろう。子どもの世界における大切なものなんて、限られた範囲にしかないと思う。
例えばこれから生まれてくる妹なんてどうだろう?もしそうだとすれば、苹果のこれまでの行動の根源にある思いを考えれば、なんと言う円環に巡る願いなのだろう。
荻野目苹果が時籠ゆりの手によって、めくるめく禁断の世界へ旅立とうとしていた頃、高倉晶馬は友人の山下洋介と共に、商店街の福引で当たった旅行券で、温泉旅館へとやってきていた。そんな時、苹果から、留守電メッセージが入る。少し言い過ぎたと航海していた晶馬がそのメッセージを聞くと、そこからは、息の上がった苹果の声で「もうメチャクチャにされちゃう。晶馬くんのせいだからね!」という意味深な台詞が。
あわてて電話する晶馬だったが、苹果のピンチにも駆けつけられない。なぜならここは東京ではないから!しかし、隣室から聞こえてくる声に耳を澄ますと、それは電話口の声と全く同じものだった。
一方、病室でテレビを見ていた高倉陽鞠は、ブラウン管の向こうの伊空ヒバリと歌田光莉が、陽鞠の編んだマフラーをしていることに気付く。それを行ったであろう渡瀬眞悧のもとへ行くと、そこには金を私に来たいた高倉冠葉がいた。
ネタばれ感想文
AパートとBパートの構成がはまっている。Aパートでは、時籠ゆりの幼少時代、父との関係や、荻野目桃果との出会いがドラマティックに描かれる。そしてBパートでは、それとは対になるテーマが描かれるのだ。
一般的に、児童虐待というテーマは重い。軽々に扱うと、逆に叩かれることすらあるだろう。だが今回は、そんな重いテーマを扱わなければならない。時籠ゆりは小学生の頃、お前は醜いと父親に刷り込まれ、美しくなるためには、父に愛されるためにはこれに耐えなければならないと、体を傷つけられることを受け入れさせられていたのだ。
そして、そんな事実が発覚しないように、彼女に友達ができれば、真の愛は家族の間にしかない、友人はお前を裏切る、といって、仲良くなることを否定していた。
子どもの世界にとって、親の言葉とは絶対だ。それを利用して子どもを支配するのは、やり方として汚い。そんなゆりにかけられた呪縛を破ったのが、桃果だ。彼女はゆりをきれいだといい、醜いアヒルの子なんていうのはどこにもいないと、彼女にとっての救いの言葉を告げる。そして、自分のみを犠牲にしてまで、彼女の呪縛を破ることで、ゆりの絶対的な信頼を得ることに成功するのだ。
しかし、こういうネタを正面から扱うのはアニメ的に色々とつらい。そこで、ピンチに陥った苹果を、ご都合主義的に晶馬が助けに来るという構図を作ることで、ヒロインのピンチにはヒーローが助けに来るということを強調し、かつ、その晶馬をコミカルに描くことで、あくまでこれはフィクションだということを強調したかったのだと思う。
そして今度は逆に、家族のためには自分を犠牲にする例として、冠葉を描く。彼は、陽鞠を助けるという目的を達するために、自分の何かを犠牲にして、大金を持ってくる。その姿は正しいけれど、どこか異質でもある。まるで彼は家族という血の呪縛にとらわれている囚人であるかのようだ。
そんなことは何も知らず、マフラーが友人に届いたことに喜ぶ陽鞠。彼女は、多大な犠牲を払っている冠葉にではなく、マフラーを届けただけの渡瀬眞悧に篤い感謝の念を送る。彼女が本当に望むことを成し遂げたのは誰なのか。そこに冠葉のやりきれなさが浮かぶ。
ついに桃果の秘密が明らかになった。あの日記に込められた能力が何かということも。それでは一体、桃果は何の代償に自分の命を失ったのだろう。子どもの世界における大切なものなんて、限られた範囲にしかないと思う。
例えばこれから生まれてくる妹なんてどうだろう?もしそうだとすれば、苹果のこれまでの行動の根源にある思いを考えれば、なんと言う円環に巡る願いなのだろう。
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2011-10-21 │ 輪るピングドラム │ コメント : 0 │ トラックバック : 0 │ Edit